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東京地方裁判所 昭和63年(ワ)18592号 判決 1989年9月25日

原告 甲野太郎

右訴訟代理人弁護士 坂井芳雄

被告 乙山春夫

右訴訟代理人弁護士 松村光晃

同 築地伸之

同 大谷和彦

主文

被告は、原告に対し、三、五九〇、〇〇〇円及びこれに対する昭和六三年二月二〇日から右支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

原告のその余の主位的請求を棄却する。

訴訟費用は、これを三分し、その二を原告の、その余を被告の各負担とする。

この判決の第一項は仮に執行することができる。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  原告の請求の趣旨

(主位的請求の趣旨)

1 被告は、原告に対し、一一、二二四、〇〇〇円及びこれに対する昭和六三年二月二〇日から右支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

2 訴訟費用は被告の負担とする。

3 仮執行の宣言

(予備的請求の趣旨)

1 被告は、原告に対し、一〇、七八三、〇〇〇円及びこれに対する昭和六三年二月二〇日から右支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

2 訴訟費用は被告の負担とする。

3 仮執行の宣言

二  被告の答弁

1  原告の請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

第二当事者の主張

一  原告の請求原因

1  原告と被告は、昭和六三年二月一九日当時、東京都文京区小石川四丁目一三番一〇号所在のアパート「福寿荘」の二階の各一室をそれぞれ賃借して居住していたが、原告の居室は、同日早朝、被告の居室から出た火災により、焼失した。

2  本件火災は被告の失火によるものであり、被告には、右失火について重大な過失があった。

すなわち、被告は、本件火災の日の前日深夜に帰宅し、間もなく暖房用の電気ストーブに点火した後、そのまま就寝したが、翌朝六時頃布団が燃えているのに気がついて眼を覚ました。

被告の居室は、四畳半であり、そこに、机、本棚のほか、生活用具を持ち込んでいたので、布団を敷くとそれで部屋がぎりぎり一杯になる状況であった上、部屋の中には、紙屑等がかなり散乱していた。

右のような状況の下においては、就寝中の身体の動きに応じて布団や紙屑等の可燃物が動き、それが電気ストーブに接触する等して着火するに至ることは十分に予測されるところであるから、就寝の際に電気ストーブを消すことは、常識ある人間ならば誰でも常に実行することであるのに、被告は、そのようにして火災の発生を未然に防止すべき注意義務を怠り、電気ストーブに点火したまま就寝してしまった重大な過失により、電気ストーブから布団又は紙屑等に引火して本件火災を発生させたものである。

3  また、共同住宅において火災の発生に気がついた者は、自分一人で消火しようとせずに、直ちに大声を上げて他の居住者の応援を求め、また電話で消防署に通報することにより、被害の発生を最小限に食い止めるように図るべき注意義務があるにもかかわらず、被告は、自室の火災に気がついた際、自分一人の力でこれを消し止めようと企て、廊下と手洗所との間を往復したり、消火器を探すためか階段を上下し、更に戸外へ出て、かなり遠方まで行き、「火事です。」と叫ぶ等して時を移し、原告ら他の居住者に対する通報を著しく遅滞し、また、被告は、自室に電話があったのに、消防署に電話で連絡をすることも怠った。

もし被告が右注意義務を怠らなかったならば、原告は、その居室内の搬出困難なもの以外の所持品を搬出し、その罹災を免れることができたはずであるのに、被告が原告らに本件火災の発生を知らせた時には、既に身一つで逃げ出すほかない状況に至っていたのであるから、被告は、原告に対し、失火の責任とは別個に、右のとおりその被害を拡大させたことについて不法行為責任を負うべきである。

4  原告は、本件火災により次のとおりの損害を受けた。

(一) 物的損害

原告は、その居室内の所有物品を全部焼失した。これによる損害は、次の合計六、二二四、〇〇〇円である。

(1) 搬出の容易なもの 五、七八三、〇〇〇円

うち 物品 四、二五七、〇〇〇円

現金・証券 一、五二六、〇〇〇円

(2) 搬出の困難なもの 四四一、〇〇〇円

(二) 精神的損害

原告は、本件火災発生当時、医師の資格の取得を志し、東京大学理科三類への入学と大阪大学医学部への学士入学を併願し、受験勉強に専念していた。

ところが、原告は、本件火災により、旬日の間に迫っていた東京大学理科三類の受験票を焼失し、その再発行を願い出たが、なかなか許されず、連日事務局に通って交渉しなければならなかった。原告は、ようやく試験の当日の朝になってその再発行を受けることができたが、その間の不安は筆舌に尽くし難く、そのような心理状態で受験したのでは競争の激しい右試験に合格することは無理であった。

また、大阪大学医学部への編入試験は、医学に関する専門知識を試すものであったから、それまでに学習した専門書やノートで復習をしておくことが必須の準備であったが、原告は、本件火災によりその手段を失ったため、受験そのものを諦めざずる得なかった。

このようにして両試験を失ったことは、原告の人生経路にとって大きな躓きとなることは想像に難くなく、原告は、今や再受験の意欲を失いかけている。

以上による原告の精神的損害は、一〇、〇〇〇、〇〇〇円以上とみるべきであるが、原告は、本訴において、そのうち五、〇〇〇、〇〇〇円を請求する。

なお、原告は、被告から見舞金として一五〇、〇〇〇円の贈与を受けたが、これは、右精神的損害のうち、請求外の損害の賠償に充当する。

5  よって、原告は、被告に対し、主位的請求として、失火責任による損害の賠償として、前記4の(一)及び(二)の損害合計一一、二二四、〇〇〇円及びこれに対する不法行為の日の翌日である昭和六三年二月二〇日から右支払済みまで民事法定利率年五分の割合による遅延損害金の支払を求め、予備的請求として、火災の通報の遅延による損害の賠償として、前記4の(一)の(1)及び(二)の損害合計一〇、七八三、〇〇〇円及びこれに対する不法行為の日の翌日である昭和六三年二月二〇日から右支払済みまで民事法定利率年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  被告の答弁

1  請求原因1記載の事実は認める。

2  同2記載の事実中、被告が本件火災の日の前日深夜に帰宅し、電気ストーブに点火したままの状態で眠り込み、翌朝六時頃布団が燃えているのに気がついて目覚めたこと、被告の居室が四畳半であり、室内に机、本棚等があったことは認めるが、その余の事実は争う。

被告は、本件火災の直前の二日間は修士論文発表会の準備のため大学構内で仮眠を取りながら作業をするという強行スケジュールをこなした上、本件火災の前日も深夜に帰宅し、電気ストーブに点火して、布団を敷いた。被告は、就寝時には電気ストーブを消すのを習慣としていたが、この日に限っては、疲労のため、いつの間にか眠り込んでしまった。これは、危険を意識しながらあえて眠りについたものではなく、極度の眠気に襲われたための単純な過失であり、本件火災につき、被告に重大な過失があったとすることはできない。

3  同3記載の事実は争う。

被告は、火災の発生に気づくや、燃えていたストーブに布団二枚をかけ、水道水で消火しようと試みた。しかし、そのような方法による消火は不可能であると悟った被告は、消火器を探すために階下の手洗所付近に走ったが、消火器を発見することができなかった。そこで、被告は、すぐさま二階に戻り、他の居住者の千葉及び原告の部屋の扉をドンドンと叩き、「火事です。」と叫んで同人らに危険を告げた。そして、この時点では既に被告の居室に戻って消火活動をすることが不可能な状況にあったため、被告は、自力による消火を諦め、千葉及び原告と共に戸外に出て、大声で「火事です。」と叫んで付近の住民に火災の発生を知らせ、消防署への通報を依頼した。

このような事実関係の下においては、電気ストーブに布団をかけたり、消火器を探したりして消火を試みた被告の行動に何らの不備はなく、また、被告には、火災の通報を著しく遅滞した過失もない。

4  同4記載の事実中、本件火災により原告の居室内の原告所有物品が焼失したこと及び被告が原告に対して見舞金として一五〇、〇〇〇円を支払ったことは認めるが、その余の事実は知らない。

第二証拠関係《省略》

理由

一  請求原因1記載の事実は、当事者間に争いがない。

二  請求原因2について

1  《証拠省略》によれば、被告の居室は四畳半であり、そこに、机、本棚、衣装箱、食器入れ、冷蔵庫、電気ストーブ、テレビ、ビデオデッキ、レコードプレーヤー、カセットラック等が置いてあり、布団を敷くと、ほとんどすき間がない状態であったこと(被告の居室が四畳半であり、室内に机、本棚等があったことは、当事者間に争いがない。)、被告は、本件火災が発生した日の前日である昭和六二年二月一八日の深夜一一時半頃帰宅し、直ちに近くの銭湯に行き、銭湯から戻ってから電気ストーブに点火した上、布団を敷いたこと(被告が本件火災の日の前日深夜に帰宅したことは、当事者間に争いがない。)、右電気ストーブは、四〇〇ワット二本(合計八〇〇ワット)の、スチームとファンの付いたもので、高さ三、四〇センチメートルの段ボール箱の上に木の板を敷いてその上に置き、同日は、敷いた布団の足元付近に、布団と極めて接着した状態で置いてあったこと、被告は、同日の直前の二日間は修士論文の発表の準備に追われ、大学構内で仮眠を取りながら作業をしてきたため、相当疲労が溜まっていたこと、被告は、翌朝六時頃、変な感じがして目が覚めたところ、部屋に煙があり、ストーブが真っ赤に燃えており、足元の布団にも火がついていたこと(被告が翌朝六時頃布団が燃えているのに気がついて目覚めたことは、当事者間に争いがない。)、被告は、昨夜布団にもぐり込んだという記憶も、部屋の明かりを消したという記憶もないが、朝目が覚めてみたら、上はジャンパーを着たままで、下はパンツ一枚の姿で寝ていたことに気がついたこと、以上の事実が認められる。

2  右認定の事実によれば、本件火災は、被告が前記電気ストーブに点火した上、布団を敷いた後、就寝する準備としてズボンは脱いだが、上着のジャンパーは脱がないまま、布団に横になったところ、疲労が重なっていたため、睡魔に誘われ、そのままの状態で眠り込んでしまい、就寝中、寝返りを打った際に布団が動き、それがストーブに触れたか、あるいは、時の経過とともに、布団のストーブの直近の部分が過熱し、遂にそれが発火温度に達し、着火するに至ったかして発生したものと推認される(被告が電気ストーブに点火したままの状態で眠り込んだことは、当事者間に争いがない。)。

3  ところで、八〇〇ワットの電気ストーブを、点火したまま、布団とほとんど接着した位置に放置すれば、寝返りを打つ際に布団が動き、それがストーブに触れ、そうでなくても、時の経過とともに、布団のストーブの直近の部分が過熱し、遂には、それが発火温度に達し、着火するに至るであろうこと、また、疲労が溜まっている状態にあるときに、深夜布団を敷いてそこに横になれば、就寝するつもりはなくても、つい睡魔に襲われ、そのまま寝入ってしまうおそれがあることは、いずれも、通常人に要求される程度の相当の注意をしなくても、わずかの注意さえすれば、たやすく予見することができたはずである。しかるに、被告は、これを漫然と見過ごし、前記のとおりストーブに点火した上、布団を敷き、そこに横になったまま寝入ってしまい、その結果、ストーブから布団に着火して、本件火災を発生させたものであるから、被告には重大な過失あったものと認めるほかはない。

4  したがって、被告は、本件火災により原告に生じた損害を賠償すべき責任がある。

三  原告の損害の額について

1  物的損害

本件火災により原告の居室内の原告所有物品が焼失したことは当事者間に争いがなく、《証拠省略》によれば、焼失した原告所有物品の中には、搬出の容易な物品として、現金・証券類のほか、書籍類、衣類、身の回り品(靴、眼鏡、コンタクト、腕時計等)、調度品(布団、毛布、食器類、ラジオ等)、その他(アルバム、研究資料、レコード等)が、搬出困難な物品として、本棚、机、椅子、冷蔵庫、テレビ、ステレオ等があったこと、右物品の価額は、原告が昭和六三年五月一二日に小石川消防署に提出した動産り災申告書によれば、現金及び証券類が一、五二六、〇〇〇円、その余の物品が合計五、〇〇〇、〇〇〇円余とされていること、原告は、右価額を記載するに当たり、書籍類については定価を記載したが、衣類、家具類等については、消防署の指導により、その取得価額から約三〇パーセントを減額した額を記載したことが認められる。

以上の事実に基づき、原告が本件火災によって受けた物的損害の額を算定するに、現金及び証券類については右申告額の全額、書籍類については右申告額の五分の一の額、衣類については、右申告額が取得価額の約七〇パーセントとされていることを考慮し、同じく右申告額の五分の一の額、調度品及び搬出困難な物品のうち耐用年数が比較的長いと認められるものについては右申告額の三分の一の額、その他の物品については右申告額の四分の一の額によることとし、その合計額二、七四〇、〇〇〇円をもって相当と認める。

2  精神的損害

《証拠省略》によれば、原告は、昭和三〇年七月一二日生まれで、本件火災があった昭和六三年二月当時三二歳であったこと、原告は、既に早稲田大学理工学部建築学科及び東京大学医学部保健学科を卒業していたが、かねてから抱いていた医師の資格を得たいとの思いを捨て難く、当時、東京大学理科三類への入学及び大阪大学医学部三年への学士入学を併願し、受験強勉に専念していたこと、原告は、本件火災により、東京大学理科三類の受験票を焼失したため、同大学にその再発行を申請したが、なかなか許されず、ようやく試験当日の同年三月四日の朝になって再発行を受けることができたものの、それまでの間、著しい不安と大きな精神的動揺を覚えたこと、また、大阪大学医学部への受験については、その受験準備に欠かせない資料を焼失したほか、右受験に必要な諸費用等に充てるため手元に置いていた現金までをも焼失し、必要な旅費、ホテル代等を工面することができなかったため、これを断念せざるを得なかったことが認められる。

以上の事実のほか、被告が原告に対して見舞金として一五〇、〇〇〇円を支払ったこと(このことは、当事者間に争いがない。)その他本件に顕れた一切の事情を斟酌して、原告が本件火災により寒空の中を無一物で焼け出されたことによって受けた精神的苦痛を慰謝するに必要な金銭の額は、八五〇、〇〇〇円をもって相当と認める。

四  よって、原告の主位的請求は、前認定の物的損害二、七四〇、〇〇〇円及び精神的損害八五〇、〇〇〇円の合計三、五九〇、〇〇〇円並びにこれに対する不法行為の日の翌日である昭和六三年二月二〇日から右支払済みまで民事法定利率年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるからこれを認容し、その余は理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条、第九二条本文を、仮執行の宣言につき同法第一九八条第一項をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 青山正明)

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